臆病と冷静の隙間

日々のことを思いついたときに書き留めています

オリンピック備忘録②

カーリングもかなりおもしろかった。カーリングを真剣に見るようになったのは、たぶん平昌オリンピックからなんだけど、戦略を考えながらじっくり進むところが本当に面白い。見ながら、ここに投げたらいいかな、こっちにガードストーン置くのかな、なんて考える余裕があるのもいい。

といっても、やはり見る専なので、やったことは一度もない。

 

さて、カーリングがめでたく銀メダルに輝いたとき、ネットニュースを見ていて、ふと思ったことがある。

そういえば、前回のオリンピックのときは、競技そのものよりも「そだねー」とか「もぐもぐタイム」に言及した記事の方が、より多く目に入る環境だった。カーリングのおもしろさではなく、プレイする選手に魅力を見出すことが、必ずしも悪いこととは言わないけれど、でも、一所懸命戦った選手に対しては、かなり失礼なのかも?と、個人的にはもやもやするポイントだったことを覚えている。

でも今回は、ネットニュースにしろSNSにしろ、競技を競技として楽しむ人が増えた気がして、それもまた楽しかったのだ。強いて言うなら、実況中に「〇〇選手がおもしろい表現をしましたね」なんて言うのは、少しナンセンスかなと思ったが。

少し話は変わるけど、選手の整形したしないの話だとか、ファッションセンスに言及する記事もおもしろくない。

どうも、スポーツマンシップという言葉のかげで、選手はこうあるべき、という固定観念があるように思うのだ。

もう一つ不満を言わせてもらうと、期待に応えられなくて申し訳ない、と涙を流す瞬間が、どうにもつらい。そのような状況にさせてしまったこちらこそ、大変申し訳ない。

吉田沙保里選手が、引退前最後のオリンピック決勝で負けた時、見ていられないほど苦しかった。その時彼女は、何度も「応援してもらったのに」と謝った。どうして泣く必要があるのだろう。どうして泣かせてしまったのだろう。

こちらは、私が応援したくて応援してるのだ。金メダルをとる義務なんてそこにはない。期待してるから?視聴率の問題?何が理由だとしても、オリンピックの決勝に行って、自分のため以外に涙を流す必要なんてないと思う。自分が悔しいと思ったり、達成感とか、悔しさとか、うれしさで泣くのは大歓迎だ。でもそこに罪悪感なんて、必要だろうか?私の知らないところに、その理由があるのかもしれないけれど、私は、選手全員がじぶんのために競技をしてほしいと思っている。

プレゼンに失敗して、企業に損失を与えたなら話は分かるけど、スポーツは努力と戦略だけでなんとかなるものでもない。これもまた、冷たいかな。

 

少し違うけど、受験で落ちた時「家族に申し訳ない」と思って、ずっと苦しかったことがある。でも、いまとなってはそのころの自分が、あそこまで思いつめる必要もなかったのでは、とも思う。もちろん、応援してくれた人には感謝すべきだが、その感謝と罪悪感が混ざってしまうと、立ち直れないこともある。

言いたいことがごちゃごちゃになってしまったのだけど、みんなもう少し、楽に生きてほしい。

パラリンピックが始まった。もはやオリパラともに、政治と切り離した「平和の祭典」とは呼べないけれど、でもスポーツの力が確かにあるとわたしは信じている。